今回は2021年公開ディズニー・ピクサーの『ソウルフル・ワールド』の考察です。
アカデミー賞長編アニメーション賞&作曲賞受賞という華やかな受賞歴を持ちながら、公開当時は映画館で上映されなかった不遇の名作。
主人公が黒人だからポリコレ意識?
魂の世界なんてちょっと宗教じみている?
そんな不安は一度観たら吹き飛ぶはず。
間違いなく2020年代のピクサーを代表する作品と言えるでしょう。
大人視点で楽しむ『ソウルフル・ワールド』の魅力、そして作品に隠された不気味な謎についても考察していきます。
目次
ジャズってる!
『ソウルフル・ワールド』にはプリンセスも魔法も出てきません。
むしろ主人公は中年男性、舞台は現代のニューヨーク。
主人公のジョーは非正規の中学講師で、家業の手伝いをしながら母親たちに諌められる冴えない人間として描かれています。
ジョーが黒人男性なので、ついポリコレ目線で見てしまうかもしれません。
しかしこの配役には必然性があります。
それは『ソウルフル・ワールド』のテーマの1つが”ジャズ”だから。
ジョーもジャズピアノに魅了され、ミュージシャンとして生きていくことが夢です。
ジャズは譜面通りだけでなく、即興演奏をしたり、さまざまなルーツを持つ独特の音楽。
劇中で何度も流れるジャズ同様、さまざまな考え方や生き方を自分なりに解釈してもいいんだという全肯定の姿勢がこの作品の根底にあります。
そして魂の世界でずっと「生まれる前の状態」を過ごしている”22番”もまた、ストーリーの核です。
無気力で、地上に行くことをずっと拒み続けている22番が、ジョーの体に乗り移ることで地上を見ます。
ジョーにとっては何気ない日常だったことが、22番にとっては感動の連続。
2人の想いが”ジャズってる”様子は、見ていてとても微笑ましかったですね。
また魂の世界でジョーの半生を見た時、ジョーにとっては良い思い出だったものが、なぜか悲しい思い出のように映し出されるシーンがありました。
ここでジョーは「都合の良い解釈をしていただけで、自分の人生は悲惨なものだった」と感じるのですが、最終的には「都合の良い解釈でいいんだ、自分視点の自分の人生を楽しめばいいんだ」と気づきます。
この展開も、まさに”ジャズってる”と言えるでしょう。
きらめきは目的ではない
魂の世界ユーセミナーでは、魂たちが万物の殿堂でそれぞれのきらめきを探します。
きらめきを揃えると地上に降りられるという仕組み。
それぞれのきらめきに応じた個性を備えることで、「生きる意味」を見つけるのだとジョーは考えます。
しかしジェリーたちははっきりと言いました。
むしろ「人生に目的なんかない」とでも言いたげな、さもそれが当たり前であるかのように言ってのけます。
ここではジョーだけでなく、視聴者も度肝を抜かれるでしょう。
なぜならこの『ソウルフル・ワールド』のキャッチコピーは、
つまり「どんな自分になるか」を決めて、そのゴールに向かって人生を生きる前向きなストーリーだと思ったはず。
例えばジョーの場合は「ジャズミュージシャンになる」というきらめき(≒目的)を見つけて、改めてその夢を叶えるために生きていくのだろうと想像します。
しかしジェリー曰く「きらめきは目的ではない」とすれば、話は変わってきます。
「きらめきは目的ではない」のなら、そもそも何のためにきらめきを揃えてから地上に降ろすのか。
きらめき自体に大した意味はないのだとすれば、なぜきらめきが揃わない22番を何千年も魂の世界に留めているのか。
ジェリーたちはユーセミナーのことを「ブランド戦略」と呼んでいました。
ブランドに対する共感や信頼などを通じて顧客にとっての価値を高めていく、企業と組織のマーケティング戦略。
Weblio国語辞典
つまりユーセミナーとは、「魂=自分」の価値を高める場所。
きらめきが揃わない22番が「自分には生まれる価値がない」と言っていた通り、きらめきが揃うと自己肯定感が高まり「自分は生まれるべき存在」だと信じられるようになるわけです。
ユーセミナーはその機会を提供しているだけ。
魂たちが自分の価値を信じられればそれでいいので、「きらめきは目的ではない」ということ。
ちなみに実は地上にも、ユーセミナーの万物の殿堂にそっくりな場所があります。
それはキッザニアです。
子供たちが様々なお仕事体験ができる施設で、施設全体が1つの街のような作りになっており、お仕事体験で得た報酬で買い物などもできます。
やはりキッザニアも「目的」を探すのではなく、「自分の価値を信じられる」ようになる経験を提供しているのかもしれません。
日常こそきらめき
ジョーの憧れのジャズミュージシャン・ドロシアも、この作品では重要なキャラクターです。
仕事に対してはとてもシビアで、一度は実力を認めたジョーが、約束の時間に遅れると非情な態度で退けます。
そんな中、ライブを終えた後のジョーとドロシアの会話が印象的です。
ライブの達成感とは裏腹に、憧れていたドロシアとの共演が案外あっけなく終わってしまい虚無感に満ちているジョーに対しドロシアは例え話をします。
探し求めていたものは意外と近くにあり、自分がそのことに気づいていないだけだったりするということでしょう。
ジョーも何となくわかったような表情でドロシアと別れます。
しかしさらに印象的なのは後に公開されたピクサーの短編集『ポップコーン・ショーツ』での1コマ。
ジョーを取り巻く人々がそれぞれの日常を送っている様子が描かれますが、その中のドロシアはサックスの練習をしているのです。
ドロシアほどのミュージシャンでも、日々の練習を大切にしながら生きていることがわかります。
そして日常に戻ったジョーも、一瞬一瞬を大切に生きていくというラストです。
ここでも視点がジャズっています。
ジョーから見たドロシアは華やかなミュージシャンですが、華やかなのは彼女のほんの一面に過ぎないということ。
またジョー自身も、冴えない音楽教師のように見えますが、22番と出会った後の彼はそんな自分の価値を信じられるようになっています。
『ソウルフル・ワールド』のような何気ない日常や何者でもない自分を全肯定する作品が、コロナ禍で生まれたことは必然かもしれません。
人生のところどころで観て、そのエッセンスを思い返したくなる名作です。
以上『ソウルフル・ワールド』の考察でした。