今回は1997年公開『ヘラクレス』の考察です。
興行収入は2.5億ドルで『リトル・マーメイド』に匹敵する成績を収めながら、あらゆる点で”ディズニーらしくない”異例の作品。
今回は『ヘラクレス』の”ディズニーらしくない”点にスポットライトを当てながら、史上最も魅力的なヒロインで悪女でもあるメグについてもクローズアップしていきます。
ディズニーらしさとは何か?が話題になる昨今、あえて”ディズニーらしくない”作品を再発見してみませんか?
ぜひ最後までお付き合いください。
目次
“神”がかったデザイン
『ヘラクレス』のディズニーらしくない点で最もわかりやすいのはキャラデザインです。
同じディズニールネサンス期で監督も同じ作品『アラジン』と比べてみます。
『ヘラクレス』の方は全体的に角張っていて、表現のあちこちがデフォルメされている印象です。
実は『ヘラクレス』のキャラクターデザインは、当時ディズニー史上2人目の外部デザイナーとして起用されたイラストレーターのジェラルド・スカーフェ。
『ヘラクレス』の監督を務めたジョン・マスカー&ロン・クレメンツがスカーフェのファンだったからこそ実現した革命です。
スカーフェは作中全てのキャラクターのデザインに関わりました。
しかし、この『ヘラクレス』の独特のデザインは他にも要因があります。
それはギリシャ美術です。
『ヘラクレス』はギリシャ神話をベースにしたストーリーであり、作中の至るところでギリシャ美術の影響を受けています。
ギリシャ美術にとって「美しいことは善いこと」。
肉体の美しさを追求することは立派な人間になる上では欠かせない要素でした。
主人公ヘラクレスもフィルの下で修行を積むことで、完璧な肉体美を誇るヒーローへと変貌を遂げます。
『ヘラクレス』のキャラクターのところどころがデフォルメされているのは、ギリシャ美術由来の「美しさの表現」と言えるかもしれません。
もちろん、らしくないとはいえ『ヘラクレス』はれっきとしたディズニー映画。
作中でヘラクレスが神として復活する要件も、肉体的な強さやヒーローとしての実績だけでなく、最終的には「心の強さ」でした。
ラストでヘラクレスはメグの命を救うために、自身の命を犠牲にします。
その自己犠牲の精神が、最終的にヘラクレスを神たらしめるファクターとなるのです。
しかし本来は人間くさい愛憎劇を繰り広げるギリシャ神話がベースである『ヘラクレス』で、最後の最後にキリスト教的な自己犠牲の精神を説かれるのはちょっと胃もたれがしましたね。
ここは逆にディズニーらしい点と言えるでしょう。
最高の悪女メグ
「ファム・ファタル」という言葉をご存知ですか。
フランス語で「運命の女」という意味で、「男を破滅させる魔性の女」というニュアンスで使われる事が多い言葉です。
19世紀末のヨーロッパで爆発的に流行したモチーフでもあります。
ヘラクレスにとっては間違いなくメグはファムファタル(運命の女)です。
最終的にヘラクレスが神として召し上げられたためハッピーエンドでしたが、人間だったら命を失って終わる破滅の物語になるところでした。
メグがファムファタルといえる由縁はそれだけではありません。
そもそもメグは死者の国にいた人間で、その原因は恋人を救おうとして裏切られたから。
メグ自身が恋愛が因で破滅した人間なのです。
そしてハデスの手下となり、何かと便利な色仕掛け要員として酷使されています。
ヘラクレスとメグが出会う場面で、メグはネッソスという所謂ケンタウロスに襲われているのですが、実はこれもハデスの命令でケンタウロスを連れてくるという”お遣い”の途中だったようです。
ヘラクレスからなぜネッソスに襲われていたのか聞かれた際にメグが、「男の勘違い」とはぐらかしている点もファムファタルらしくてシビれます。
またメグはヘラクレス以外のキャラクターには忌み嫌われているのも特徴的です。
ヘラクレスの師匠であるフィルやペガサスも、物語のラストまでメグを一切信用せず邪魔者扱いしています。
つまり作中でメグを心から慕っているのはヘラクレスだけ。
これもまた他のディズニーヒロインにはない魅力のひとつです。
周りからどんなに邪険にされようが飄々とかわして、孤独にたくましく生きようとするメグはファムファタルでありながら、男に媚びない非常に自立した女性としても描かれています。
そして最終的にヘラクレスへの愛に気づき、それを認めるのですが、その揺れ動く感情を歌い上げる『I Won’t Say (I’m in Love)』(邦題:恋してるなんて言えない)はメグの複雑な表情と浮かれるステップのギャップが素敵な名曲です。
このようにメグは最も”ディズニーらしくない”ヒロインでありながら、実は他のディズニー作品でも大切にされてきた「自立した女性像」にも当てはまる複雑で魅力的なキャラクターなのです。
そもそも主役は誰?
『ヘラクレス』は文字通りヘラクレスが主人公の物語です。
しかしこれはあくまで表向きの話。
実際の主役はヘラクレスの父ゼウスではないでしょうか。
ギリシャ神話におけるゼウスは全知全能の神。
雷を操りあらゆる敵をなぎ倒します。
『ヘラクレス』のオープニングはゴスペルから始まりますが、その内容はゼウスの活躍について。
主人公はヘラクレスのはずが、そもそも父親が全知全能の神という脅威の親ガチャからスタートする衝撃のストーリーです。
またハデスの策略により神から人間に変えられてしまったヘラクレスが、英雄になり神として召し上げられることを目指す際の曲のタイトルは『Zero to Hero』(邦題:ゼロからヒーロー)。
ゼウスの息子であるヘラクレスが下積みをする様子を”ゼロ”と表現するのは、違和感を飛び越えて嫌味にも聞こえてきます。
またラストでハデスがタイタンたちの封印を解き、オリンポスを乗っ取ろうとする際も、最終的には復活したゼウスが怪異たちを薙ぎ倒し終了。
ヘラクレスも戦いはしますが、一番いいところをゼウスに持っていかれているようにも見えます。
神としての規模感がゼウスとヘラクレスでは天と地ほどの差があるため、このようになるのでしょう。
『ヘラクレス』ではゼウスと正妻ヘラの間の子どもがヘラクレスという設定ですが、一般的にはヘラクレスの母は人間です。
ゼウスとヘラ夫婦の子どもは一説には7人いると言われている上、しかもゼウスには愛人もたくさんいたことから、子どもの数は計り知れません。
その中にはアテナ、アポロン、アフロディテなどヘラクレスと同じくらい知られている子どももいます。
つまりヘラクレス自体が壮大なゼウスの物語の、ほんの一部にしか過ぎないということ。
他のディズニー作品で言えば、例えば『ライオン・キング』はムファサとシンバ親子の物語ですが、ムファサが途中で亡くなるため、必然的に後半はシンバの活躍が増えます。
しかし『ヘラクレス』の場合、ヘラクレスの父ゼウスは不死身の存在。
当然物語からフェードアウトすることはありません。
これも『ヘラクレス』のディズニーらしくない作風に影響を与えていると言えます。
映画『ヘラクレス』はのちにテレビシリーズも製作されました。
ヘラクレスがメグと出会う前、フィルの下で修行している高校時代という設定です。
『ラマになった王様』のテレビシリーズも、クスコやクロンクが学校に通うという設定だったので、もしかしたら『ヘラクレス』シリーズが影響を与えたのかもしれません。
『ラマになった王様』もディズニーらしくない、だけどとんでもない名作だったのでありえる話ですね。